町はいつもいい匂いにつつまれていた ぼくは首都の郊外で少年期をすごしたんだけど いま思うと 町はいつもいい匂いにつつまれていた 門松の松の匂いが消えると そこはかとなく薫る梅の香と 頭の痛くなる沈丁花の匂いがあたりにたちこめ 間もなく町は花々の薫りで満たされた むせるようなクロロフィルムの匂い 栗の花の青くさい匂いがぼくらの脳髄をむずかゆくした 井戸水の錆くさい匂いと 防火用水の日向くさい匂いと 新聞のインクの匂い 納豆と味噌汁と魚を焼く匂いが路地を伝わって流れ 洗濯物と洗い張りの匂いと 寝小便の匂いと 燕の巣の匂い バスやタクシーのガソリンの匂いはどこかかぐわしく ぼくらは遠くまであとを追いかけていった 製材所が甘ずっぱい木材の匂いをふり撒き 焼き芋屋の芋の焼ける匂いと 鰹節屋の鰹節をけずる匂いに鼻孔の奥の方をくすぐられ 肉屋のコロッケの匂いが腹の虫たちを合唱させ 鉛筆の匂いと 消しゴムの匂いと 運動靴の汗の匂いと ランドセルの革の匂いが往来にあふれ 家のなかには沢庵と便所の匂いが漂っていて 黴と 線香と 豆の煮える匂いと 猫と 樟脳と ニッキと スピール軟膏の匂いと 天瓜粉と ポマードと お化粧の匂いがし コーヒーやカレーライスの匂いがまざることもあった 歯磨き粉と 蚊帳と クサカゲロウの匂いがすると 屋台の中華そばの匂いが流れてきて 犬が月に向かって吠え 町は甘い夜気と草の匂いにつつまれ |